『兄の終い』補稿 お前ばかり

数日前の10月30日は、兄が亡くなって一年目のその日だった。私自身は、その数日前から、「もう一年か~はやっ」と考え続けていたが、私の家族も、親戚も、きっとすっかりそんなことは忘れていただろうし、それで正解だと思う。もしかしたら、加奈子ちゃんと良一君は心のなかで何かを感じていたかもしれない。連絡はとっていないのでわからない。

実は兄は未だにわが家にいる。つまり、遺骨はまだ私の家のなかの、目立つ場所にある。本のなかには、「一刻も早く兄を持ち運べるサイズにしてしまおう」と書いたが、確かにサイズ的には持ち運べるようになったものの、重量的にはとてもじゃないが持ち運ぶことができるものではなく、東北からわが家までゆうパックで送り届けられてきた(遺骨の配送は郵便局しかやってくれない。これ大事)。「骨になっても重いわ」と冗談を言う私に、加奈子ちゃんはぷっと吹き出して、「んだね」と答えていた。

兄の遺骨には行き先がない。母や母方の祖父母の眠る墓は母方の叔母が管理してくれているが、もう墓じまいを考えていると聞いている。詳細は書かないが、諸々の事情を鑑みて、全面的に理解できる。私が叔母さんだったら同じ選択をする。父方の親戚が眠る墓は、どこにあるのかも、誰が管理しているのかも私は知らない。一度も会ったことがない父方の祖父や、最後に会うことができなかった祖母や、ずっと会っていなかった叔父さんの墓を訪れてみたいとは思っているけれど、それと、兄がそこに入ることができるかは、まったく別の話だ。というか、無理筋すぎる。だから、兄はこのまましばらくわが家にいることになるだろう。しばらくわが家にいることになって、そこから先、彼はどこに行くのだろう。

加奈子ちゃんと良一君には、決まったら知らせるとは言ってある。兄のこれからについては、私以外決める人がいないので、そろそろ本腰を入れて考えなくてはいけないなと、思っている。

わが家からそう遠くない山の上に、琵琶湖を見渡すことができるきれいな霊園があって、そこに樹木葬というものがあり、それでいいんじゃないかなと思う。残された子どもたちが、ある日突然、兄の居場所に行ってみたいと考えたとき、目指す場所があるのは悪くない。それも、突拍子のない場所だと面白いんじゃないか(すいません)。

本人はいつも、「俺は太平洋に散骨でいい」とか威張って言っていたが、私が「あー、桜エビの餌だな」と言うと、「やっぱやめる」と言ったし、父の墓参りに行くたびに、「理子、この墓のことは頼むぞ」と、真面目な顔で私に言っていた。いや、管理は普通、長男のあんたやろと私は密かに考えていたが、兄は100%ピュアな気持ちで、私にすべて押しつけるつもりだったと思う。兄とはそういう人だった。

本当に不思議なことに、骨になった兄に対してじわじわと、まるで母のような気持ちさえ抱きはじめてきた。あの子を一人で埋葬するのなら、少なくとも私の近くにおいて、たまには見に行ってあげようと思ってしまうのだ。サイズ的に小さくなってくれたことで、兄は「あいつ」から「あの子」に昇格(あるいは降格)した。兄の死をもってようやく到達できた境地とでもいうべきか。うまく説明できない。父と母には抱かなかった生ぬるい(生臭い)感情を、兄に対しては抱いている。兄妹のややこしさとはこれに尽きるのでは? 説明できない感情だ。

10月30日当日は、私は用事があって出かけていたが、会食中も頭のなかは兄の汚れたアパートの情景でいっぱいになっており、兄が常々私に言っていた、「お前はいいよな、親にかわいがられて」とか「お前ばかりずるいよな、俺はどうせ嫌われ者だ」という言葉がグルグルと頭のなかを回っていた。

窓際の席から外を見ると、真っ青な琵琶湖が見え、やはり琵琶湖が見える場所に埋葬したほうがいいだろうと確信した。

兄は両親にかわいがられていなかったわけではなく、兄がそれに気づくことができなかっただけであり、父も母も、そんな状況に絶望しながら死んでいった。兄の最期を知らずに他界したことだけは、よかったのではないかと思う。

ということで、樹木葬のパンフでも集めるかな……。

『兄の終い』補稿 父の病室で

いろいろ思い出しているので、忘れる前に(._.) φ メモメモ

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 父が胃癌で入院する前、たぶん数週間前のことだったと思う。父と私は居間にいて、一緒に昼ご飯を食べていた。何を食べていたのかは忘れたけれど(たぶん近所の店のソース焼きそばの出前か、カツ丼の出前)、昼に父が家にいることは大変珍しく、そのうえ、食卓にいることなんて、年に数回あるかないかのことで、私はうっきうきな気分で父と話をしていた。私は父が大好きだった。父も私をかわいがっていた。それは誰もが知るところだった。母さえ私に、「パパは理子ばかりかわいがる」と嫌味を言ったほどだ。そんな私と父が仲良くランチを食べていたところに戻って来たのが、父と大変仲の悪い、私が大嫌いな兄だった。

 兄と父は、顔を合わせればケンカをしていた。それも、激しい罵り合いというか怒鳴り合いというか、時には本気の殴り合いをした。以前住んでいた港近くの大きな家の壁には、父と兄の殴り合いでできた穴がたくさん開いていた。壁に鉄パイプが刺さっていたこともある。それなのに、互いが互いをきっと、非常に気にし、心配し、意識していたと思う。父は兄が部屋に入って来ると憮然とした表情で、「おいこのヤクザもん、仕事はしてんのか?」と聞いた。兄はそんな父の、半分ふざけた挨拶を聞いた途端、激高して、大声を張り上げた。

 「クソおやじ! 死ね!」と、突然叫ぶと、そこにあった座布団を父に投げつけた。マンガかよ。しかしその座布団は見事父の頭に命中、父のサラサラのグレイヘアー(ハゲてませんでした)が乱れ、悲しそうな父の顔にはらりとかかった。私はその父の姿を見て、驚愕していた。以前の父であれば、座布団が命中する1秒前に兄の顔面に渾身の右ストレートを命中させていたからだ。そしてきっと、この世に存在する限りの罵詈雑言を兄に浴びせかけ、兄をねじ伏せ、黙らせただろう。どっちもどっちやな……。

 なんの抵抗もしない父を見て、兄は涙声になって、馬鹿にしやがってこのやろうと捨て台詞を残し、玄関を乱暴に閉め、大型バイクにまたがって、大音量でパラリラパラリラと鳴らしながら、どこかへ消えて行った。

 私は弱ってしまった父の姿が悲しくてたまらず、部屋に戻って布団に入って、兄なんて大嫌いだと考えた。パパになんてことを……ばかばかしねしね。

 そこからしばらくして、父が入院した。数週間もすると、父はナースステーション横の個室に移動した。つまり、死期が迫っていたのだ。私は母と一緒に父に付き添っていた。父は、痩せ細ってはいたけれど、意識ははっきりしていた。父は母の一挙手一投足に苛立ち、文句ばかり言っていたが、私には優しく、病室をたずねると苦しそうにしながらも話をしてくれた。夢だとか、音楽だとか、本だとか、まあそんなことだ。

 ある日の夕方、父の病室のドアがゆっくりと開き、兄が半分だけ顔を出した。病室には入らなかったが、私の表情を見た父は、すぐに兄が来たことを察した。母は何も言わずに、すっと病室を出て行った。そんな母の姿を見て、父は私をじろりと見て、「タカだな」と言った。

 「そうだよ」と私は答えた。兄は家族からタカと呼ばれていた。

 「金か?」と父は聞いた。

 「そうだろうね」と私は答えた。

 父は力なく笑って、「いつまでたってもバカ野郎だな」と私に言った。父はそれから間もなく亡くなったが、葬儀で一番泣いていたのは兄だった。私は父の葬儀でも一切泣かず、「理子はやっぱり強いね」と親戚中に言われ、祖母には「誰に似たのかね」と言われ、釈然としない気分でウォークマンで音楽を聴いていたのを記憶している。

兄の終い、8刷になりました。

おかげさまで、兄の終いが8刷に。
思い出したことがあったので、昨日noteに書きました。

20200815日記+兄の終い補稿

いつまでも長引いていた梅雨が明けたと思ったらいきなりの猛暑、めちゃくちゃに暑い日が一週間ほど続いたあたりで、気づいたらお盆になっていた。

夕暮れ時に吹く強めの風は、むせ返るような熱気を一気に湖まで運び、気温を下げてくれる。比良山系に沈む夕日は、日増しに力を失っていくように見える。つまり、琵琶湖周辺はすでに残暑の色に染められている。2020年は、本当におかしな一年だと思う。

私が住む琵琶湖畔は透き通るように美しい水が特徴で、東岸(都会側)の琵琶湖しか知らない人にとっては、こちら側が毎年夏になると湖水浴客でごった返すなんて言ったところで想像できないかもしれない。東側の深緑色の水しか見ていなければ、まさか琵琶湖で泳ぐなんてと思うだろう。

しかし、確かに私が住むこのあたりの湖は、ここはハワイかというぐらい、美しく透き通る水をたたえている。そして例年であれば、この時期は国道が他府県ナンバーの車でごった返し、そこらじゅうから焼き肉のタレのにおいがただよってくるほど、普段はのどかな田舎町が突然、ザ・リゾートと姿を変える。しかし今年はやはり、例年に比べて人が少ない。国道もそこまで混雑していない。

わが家もすっかり夏休みモードで、息子たちは連日家でゴロゴロしているし、夫も長期休暇で在宅している。愛犬ハリー号も当然ずっと家にいて、とりあえず、家のなかに誰かが常にいる。つまり、私はどんどん苦しくなってきている(ひとりの時間が好きだから)。

ということで、夕暮れ時にひとりでドライブに行くようになった。少し足を伸ばしていつもは行かないスーパーやコーヒーショップに向かい、時間を潰す。ベンチに座って本を読むこともあれば、ノートパソコンを持って出て、仕事をすることもある。何を隠そう、これもコメダで書いている。コメダ最高。

先月ぐらいから、初盆だなと少しだけ意識していた。もうすでに100回ぐらいはここにも書いてきてことだけれど、兄が亡くなってはじめての夏だ。あまり信心深いとは言えない私だが、なんとなく、なんかしてあげないといけないのかななんて考えていた。もう私のことなんて、いや、私だけではなくて兄のことだって、きれいさっぱり忘れて幸せに暮らして欲しいから、兄の元妻の加奈子ちゃんには頻繁に連絡をしないようにしてきた。でもやっぱり、昨日は「初盆ですね」とメッセージを送ってしまった。

加奈子ちゃんはいつもの調子で、明るく返信してくれた。そして最後に思い出したように、甥の良一君が本の存在に気づいたと書いてあった。すごく驚いた。私の想像よりも数年早くバレているではないか。私は漠然と、中学生ぐらいになったら気づいてしまうかもしれないなあ~、そのときどうしようかな~とアバウトに構えていたのだけれど、もうすっかり知ってしまっているらしい。デジタルネイティブは侮れない。

長い間兄と二人きりで暮らしてきた彼にとって、兄は絶対的な存在だっただろう。それなのに、叔母さんだという人物が突然書いた本には、その絶対的存在の父の、なんだか違う側面が書いてある。……こういうのって難しいですね。

甥は「兄」としての父を知らないし、私は「父」としての兄を知らない。そして私は、兄が成人してから死ぬまでのほとんどの瞬間を、まったく知らない。兄の喜びも、悲しみも、悔しさも、侘しさも、ほとんどなにも知らずに、残された荷物だけでそれを読み取り、確執の記憶と織り交ぜ、書いた。残された人たちにどうしても伝えたいことがあったのだ。美しいところばかりは書けなかったけれど、私しか知らない兄を書けたと思う。でも、その、「私しか知らない兄を書けた」というその気持ちこそが、とても傲慢なのではないか。そう考えるときもある。

もし機会があったら、私が知らない兄のことを教えてください……と、誰に宛てるでもなく、書いておきます。

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お知らせ
中江有里さんが夏休みお勧めブックガイドに「私が選んだベスト5」の一冊として『兄の終い』を選んでくださっています。感激。

中江有里「私が選んだベスト5」 夏休みお薦めブックガイド | レビュー | Book Bang −ブックバン−レティシア・コロンバニ『彼女たちの部屋』。百年の時を隔てたパリ、二人のヒロインの物語を綴る。…www.bookbang.jp

そして、CCCメディアハウスのnoteでは、試し読みもスタートしています。https://note.com/embed/notes/nc13716f7ca93

『兄の終い』、試し読みスタート!

『兄の終い』試し読みが、CCCメディアハウスのnoteでスタートしています。夏休みの一冊どうでしょう。是非。

日記 20200723 メイドの手帖序文公開

翻訳担当して、先日出版となりました『メイドの手帖』の序文が公開されたという私的大ニュース! メイドのnoteにて。バーバラ・エーレンライクによる、バシッ! という音が聞こえてきそうな序文です。

メイドの手帖、なかなか厳しい記述が多く、読むことがつらい部分もあろうかとは思いますが、ステファニーの『命をかけた闘い』を目撃して頂けたらと思います。

ステファニーの生き方には、それまで彼女を苦しめ続けた社会的スティグマすべてに体当たりするような力強さがあり、それがどのように今の日本で受け入れられていくのか……と大変な興味があったのですが、出足が好調な様子を見るにつけ、もしかしたら日本社会も徐々に変わりつつあるのかもしれないという、淡い期待を抱いています。

日記 20200722+兄の終い補稿

まだ書いているのか! と言われてしまいそうですが、今日も日記と補稿を少しだけ。

『兄の終い』について取材を受けるとき、よく聞かれるシーンがある。それは、私が兄の汚部屋に踏み込み、ガラクタを片付けている途中にやってきた大家さんとのやりとりについてだ。

部屋をせっせと片付ける私を見て、たぶん心の底から気の毒に思った大家さんが、ホテルの宿泊だとお金がかかるだろうから、よかったらこの部屋に泊まりなさいなと私に言ってくれたのだ。私はブフォォォォォと吹き出しそうになりつつも、慌てて、首を左右に激しく振りながら「アッ、それは結構です!!」と答えた。

私たちが部屋を片付ける様子を見て安心し、饒舌になった大家さんが去ったあと、早速加奈子ちゃんに言いつけた。

大家さんがさあ、泊まっていいって言うんだよ、つか、絶対無理っしょ! と言った私に合わせるように、後ろで片付けをしていた満里奈ちゃんもクスクス笑ったんだが、私の話を聞いた加奈子ちゃんがぽつりと、

あたしはいいよ、ここに泊まっても

と答えたのだ。私はびっくりしてしまって、ロクに反応もできず、恥ずかしくなって、うつむいてせっせと兄の遺したガラクタをごみ袋に投げ入れ続けた。この場面を思い出して書いたわけなんだけど、私のその時の解釈と、実際の加奈子ちゃんの気持ちは全然違っていたことが、出版が済んでからわかった。加奈子ちゃんって本当に優しい人だな~と私は思っていたのだけれど、少し違った。いや、優しい人には違いないのだけれど、その優しさは兄に向かっていたのではなく、息子の良一くんに向かっていた。

多賀城から戻り、加奈子ちゃんと様々な意見を交わすなかで、彼女はこのときの気持ちを教えてくれた。兄の汚れた部屋に泊まってもいいと言った理由は、万が一良一くんが、兄と住んだアパートを出ないと言ったときのことを考え、その場合は自分がそのまま一緒にアパートに住み、時間をかけてゆっくりと良一くんを説得しようと思っていたそうだ。職場の上司にも、そうなるかもしれないと告げ、同僚にも告げ、家族にも告げ、皆から了承を得て多賀城に来ていた。

塩釜署から連絡が来た日の夜、私は当然一睡もできずに、良一くんをどうしようと考えていた。加奈子ちゃんとは何年も話をしておらず、彼女がどのような気持ちでいるのか全くわからなかった。もしかしたらしばらくの間、良一くんと暮らすことになるかもしれない。そうなると男児が三人になるわけだから、部屋の確保をどうしたらいいんだろう、転校の手続きとか転居とか、これから先、大変になるぞ……と、朝まで考えていた。

今となっては、当時の加奈子ちゃんが、まさに死に物狂いで良一くんを連れ戻そうとしていたことがわかる。でも、そのときの私には何もわかっていなかった。何もわからないまま、呆然としていた。

兄の死後、加奈子ちゃんがゆっくりと今までの長い道のりとこれからの希望をメールしてくれることがなによりうれしい。兄に感謝することがあるとしたら、一冊書かせてくれたこと、そして加奈子ちゃんの存在だろうと思う。

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以下、お知らせ。Web連載が増えました。そして新刊が二冊出ています。

よみタイで新連載スタート

日記 20200711

自室で本を読んでいたら、息子(2nd)がやってきて、横で勉強をしはじめた。自分の部屋は汚れているけど私の部屋は片付いていて、快適なのが理由だと思う。私は仕事に必要な本を読んでいただけなので邪魔でもなく(いやむしろうれしく)、なんだかんだと話をしながら理科の課題を一緒に眺めるなどしていた。そしてなんとなく、私が学生時代の話になった。

「かあさんが大学生のときってどんな生活をしていたの?」と聞かれ、「まず、19歳で夜逃げっていうのが、ママの転落人生のスタートだね」と答えて、あのころの気持ちに戻ってしまい、突然、胸のあたりがモヤモヤとしはじめた。

「ママが大学一年というと、ちょうど二十歳手前ぐらいのころだったんだけど、二十歳ぐらいから二十五歳ぐらいまで、ママの人生は、ただただ、暗黒だったわ……」と、しゃべり出したら延々と出てくる。

私が京都に出てきた日、母と兄が一緒に来てくれたのだが、あの二人はあっさりすぎるぐらいあっさりと、私を京都の狭いアパートに置き去りにして帰って行った。京都滞在時間はたぶん2時間ぐらいだったと思う。カナダから戻ったばかりで、いろいろな意味でズレていたと同時に度胸が据わっていたはずの私でも、さすがにつらかった。あの瞬間の寂しさ、心細さは今でも覚えている。テレビさえなく、小さな冷蔵庫とベッドがぽつんとある部屋で、一人で寝転がって泣いた。孤独だった。そしたら横の部屋に住んでいた女の子が松田聖子の「抱いて」を練習しはじめて、薄い壁を通してその歌声がいつまでもいつまでも聞こえてきた。だから聖子ちゃんは好きだけど「抱いて」は苦手だ。

「大学に通いはじめたのはよかったんだけど、すぐに行けなくなっちゃってね。っていうのも、本当に、心の底から寂しくて、孤独で、つらかったんだよね。つらくてつらくて仕方がない。寂しくて、悲しくて、京都の町が全部セピア色に見えるほどだった。部屋に戻れば孤独。とんでもない孤独だよ。このとき以上の孤独は経験したことがないぐらいだよ。あなたにはあんな孤独は絶対に経験して欲しくない。自分の周りのすべての色が変わってしまったんだよね。それぐらいの衝撃だった。乗っていた大事な自転車も盗まれちゃったしね。

結局そのアパートから逃げ出しちゃって。それで、仲のよくなった友達のアパートに転がり込んだんだよね。その子はすぐに海外に行ってしまって、結局また一人になったんだけど、そこにはそれから10年以上住んだと思う。いまでも建物はあるよ」 息子は半分ウトウトしながら、ふぅんと聞いていた。

「ハァ~(ため息)……それで、大学は一応出たんだけど就職なんてできず、結局アルバイトとか派遣社員とかいろいろやって、黒歴史を重ね、そんなときに当時流行っていたメルマガってのがあってさ、メールで自分の文章を登録してくれた人に送るわけよ~、そのメルマガっていうのを書きはじめて……それで、たぶんそのころからいろいろと書きはじめ、今に繋がったって感じかなあ……」 ……振り返ると、息子はすでに寝ていた。寝るのかよ。聞いてきたくせに。